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●牛乳は乳である ●乳は酪と変わる ●酪は生蘇と変わる ●生蘇は熟蘇と変わる ●熟蘇は醍醐と変わる |
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◆特殊な共棲培養方法
16種類の菌による共棲培養というものは実は極めて特殊な培養方法。現在ですら専門家の間では菌の培養は単独で行うべきものとされており、多種の菌種を同 時に培養するなどという発想は現代の科学者には理解し難い方法です。それは、培養そのものが菌の活性度の強化などに充重点が置かれているためで、菌の培養 中に代謝される産生物にまでは目が届いていないからなのです。 ◆日本での乳酸菌研究 日本で最初に乳酸菌に着目したのは、京都に住む正垣角太郎氏でした。 ◆大正3年、日本で初めてのヨーグルトを製造 1914年(大正3)京都で乳酸菌飲料の製造工場を造り、乳酸菌の世界へ大きく乗り出しました。当時は乳酸菌などの研究が 素直に受け入れられる時代ではありませんでしたが、氏のねばり強い研究と努力が続けられ、製品の宣伝販売活動も精力的に展開されていきました。 ◆子息の正垣一義氏 息子の一義氏もまた、医学を勉学するかたわら角太郎氏を手伝うようになり、乳酸菌をもとに医薬品や農業用肥料なども開発するようになりました。第一次世界 大戦の勃発や大正デモクラシーの中での経済的な危機も乗り越え、正垣親子は通信販売なども活用しながら販売を拡大し、販売数を次第に増やしていきました。 ◆研究者テイシェによって発見 さて、メチニコフが腸内での乳酸菌の働きを発見した頃、同じくフランスのパスツール研究所では1899年に、テイシェという研究者により乳幼児の腸内から ビフィズス菌が発見され、そして翌年にはアシドフィルス菌(乳酸菌)も発見されていました。ビフィズス菌とアシドフィルス菌は当時、同じ菌種と考えられて いた為、正垣親子もこのアシドフィルス菌使用の共棲培養による乳酸菌飲料の生産開始。芳香と美味がうけ爆発的に売れ始めました。 昭和に入ると、ブルガリア菌などの乳酸菌が分類されて一般でも手に入るようになり、4種類の共棲培養により乳酸菌飲料が作られるようになりました。 1930年(昭和4)の世界大恐慌の影響も受けず業務は拡張されていき、正垣親子は東京でも営業活動を開始し、販売実績も好調でした。ところがその頃、一 義氏は最愛の妻を病気でなくしてしまいました。失意の中、心の拠り所として仏教の道を模索、一義氏は「日本一の仏教者は大谷光瑞猊下である」との明言を受 けた後、大谷光瑞師の主宰する「光寿会」に入門、光瑞師の教えである仏教真理の科学的追究という道に入っていったのでした。 ◆天から与えられた使命 奇しくも、一義氏の専門が乳酸菌の研究であったことは、まさに運命の巡り合わせとも言うべき事でした。大谷光瑞師の説く「仏教は科学である」という理念、 そして病気で妻を失った一義氏にとって、人間の命の儚(はかな)さを嘆くよりも、仏という究極の状態を目指すための寿命論、腸内細菌による生産物質の研究 を行う事は、まさに天から与えられた使命でもあったのでした。 ◆共棲培養と生産物質 1941年(昭和15)頃には、光瑞師は既に中国の大連に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設立、同時に数種類の乳酸菌による共棲培養方法の開発に成功していました。 1942年(昭和16)日本は第二次世界大戦に参戦、陸軍軍医学校に於いても乳酸菌生産物質の効力が立証され、戦地の兵士の保険用として研究され、実際に戦地で効力の実験も行われていました。 一方、一義氏は1946年(昭和20)乳酸菌飲料の生産準備のため中国の大連に渡航した際、当時上海在住であった念願の光瑞師に拝眉し、それまでの乳酸飲 料から、その生産物質の研究に方向転換することになったのでした。ここに師と仰いでいた光瑞師と共に、いよいよ乳酸菌生産物質の共同研究が始まったのでし た。 ◆16種類の菌種を使用した生産物質 終戦を迎える頃には共棲培養の研究は既に菌16種類を使用した生産物質を取り出すまで及んでいました。 光瑞氏は一義氏に、日本でも大谷光瑞農芸化学研究所を設立することを命じた後、大連からの引き揚げ船に乗船、佐世保に入港しました。1カ月後には一義氏も 無事、引き上げて来ることができましたが、光瑞氏は翌昭和23年の10月5日に病気のため亡くなってしまいました。 ◆東京に新会社設立 帰国後、一義氏は大谷光瑞農芸化学研究所を引き継ぎ、焼け野原となった東京で新たに会社を設立し、乳酸菌生産物質による食品、香料、自然防腐剤などの開発 に着手、新製品を次々と開発、現在の共棲培養法の基になる技術を確立したのでした。 その後、乳酸菌生産物質の研究は敗戦の混乱による紆余曲折を経ながらも、研究者の手によって脈々として続けられてきました。 ◆正垣一義氏84年の生涯を閉じる 1985年(昭和60)11月7日、正垣一義氏は、腸内細菌に捧げたとも言うべき、その84年の生涯を閉じることになりました。 ◆歴史の上に培(つちか)われた培養技術 近年になって乳酸菌生産物質はやっと各方面で脚光を浴びるようになり、一般にも広く知られ評価されるようになりましたが、その本質にせまるものは、戦前の 大谷光瑞農芸化学研究所から現在に至る、正垣氏ら研究者による永年の地道な研究と改良の歴史の上に培(つちか)われた培養技術なのです。 ◆歴史の中で 正垣角太郎氏のヨーグルトは様々な製品の形をとりながら、長い歴史の中で完熟の度を強めてゆきました。 正垣一義親子の功績は、単なる乳酸菌の研究にとどまらず、仏教真理の追求を念頭に置いた、たゆまぬ努力が実ったものであります。単に学術的研究、或いは営 利至上主義で事業に従事していたならば、現在、乳酸菌生産物質が世に出ることは決してなかったでしょう・・・。 ◆現在もなお 正垣親子の意思を受け、研究を引き継いだ正垣イズム継承の直系研究所では、さらなる研究・開発が「人々の健康を守る目的」で行われているのです。 ![]() ヴェルテクスの製造に使用される16種類35株の菌 ![]() 大正時代、乳酸菌飲料の製造をしていた正垣角太郎氏の施設(京都府) ![]() 大正時代、乳酸菌飲料の製造をしていた正垣角太郎氏の施設(京都府) |