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腸内界研究第一人者の直系の研究所で製造しています。


◆日本人による醍醐の発見
メチニコフがノーベル賞を授賞したのが1908年。その少し前の1902年、ある日本人がその後の乳酸菌の世界に大きな影響を与えるような活動を開始しました。

◆大谷光瑞(こうずい)師
浄土真宗本願寺派の第22代法主である大谷光瑞師は、ヨーロッパ遊学中に各国による西域探検の成果を見聞し、自ら仏教の歴史やその痕跡を探ろうと、西本願 寺の留学生ら仏教徒による探検隊を組織し、明治35(1902)年から実に14年間、数度にわたってシルクロードに沿い、西域に探検隊を派遣しました。こ れが歴史上も有名な「大谷探検隊」で、チベット高原を含む西域南北両道にわたる遺跡群や、敦煌莫高窟などの探検が行われました。光瑞師は「仏教は科学であ る」という独特の観点から、自ら発掘された仏教の経典を翻訳し研究する仕事などをしていました。
さて、釈迦が説いた仏教とは、すなわち仏となるための道を示すものであり、人生は苦であることから出発し、八正道の実践によって解脱し、涅槃に至ることを 説く宗教です。光瑞師は仏典の中でも特に梵文教典に興味を持ち、それを翻訳する過程で、ついに涅槃経の教典の中に、腸内細菌に関連のある経文を見つけ出し ました。光瑞師がそれを科学的に解釈したところでは、仏教の教えは精神的な訓辞だけではなくその中には科学的に人間を救う方法まで述べられているというものです。

●牛乳は乳である
●乳は酪と変わる
●酪は生蘇と変わる
●生蘇は熟蘇と変わる
●熟蘇は醍醐と変わる
暗号の様なこの文書を解読することで腸内細菌に関連した人間の大きな課題であり夢である長寿の秘訣が解き明かされたのです。さて、この中に出てくる乳・ 酪・生蘇・熟蘇・醍醐という五つの単語が何を表しているのかということが大きな鍵になります。そして光瑞師が解き明かしたこれらの単語の解釈は次の通りで す。乳とは細菌を培養するための培地に相当します。酪とは乳の中から脂肪分を取り除いた物のことで、一般に、乳酸菌は脂肪分を嫌うため、培養の際には培地 の脱脂が必要です。また生蘇とは生きた菌、すなわち培養に使用する乳酸菌のこと。この生きた乳酸菌が協力し合って成熟してゆきます。そして生蘇の分泌物が 醍醐というわけです。この醍醐の中には生きた菌は全く存在しません(醍醐には芳醇な香があって美味しいため、「醍醐味」という言葉はまさしくこの醍醐が語源だったわけです)。醍醐を飲むと、腸内細菌の状態がバランスよく安定し、腸内環境に働きかけて人間の健康に大きな力を及ぼすとメチニコフより前に釈迦は既に悟っていたわけです。
細菌学の世界では、菌そのものだけではなく、菌の代謝物が人間の体に対して一定の効果を持っていることがペニシリンなどの抗生物質の誕生以来、次第に明ら かになってきましたが、驚くべきことに遥か3千年も前に釈迦はそれを解明し仏の慈悲に例え涅槃経の中で説いていました。確かにブルガリア地方の人達はヨー グルトを常食していた為長寿であったのですが、メチニコフの理論は菌そのものの効能を追求するところ止まりで、長寿の原因が生菌ではなくてヨーグルトに同 時に含まれていた乳酸菌生産物質だったことを発見できなかったのです。捨ててしまっていた他の菌との共棲状態が菌の活性度を上げること、長寿の源である生 体の免疫力を上げる機能を持つ成分が代謝物に含まれていたことには全く気がつかず彼の理論はここに欠陥があったとも言えるでしょう。
通常、細菌類を単独で培養する純粋培養の場合は、栄養素である培地の中で、温度などの環境が整えば誰でも簡単に菌を増やすことができるのですが、何種類も の菌を同時に育てる共棲培養となると、各菌が持つそれぞれの性質や特徴、代謝物によって反発したり死滅したりする為、有効な培養を行うことは出来ません。

◆大谷光瑞農芸化学研究所を設立
後に光瑞師は中国の大連に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設立、研究所のスタッフは腸内細菌の代謝物(生産物質)の研究を進め16種類の菌を単独で培養、最 終的にあるタイミングと温度と菌の組み合わせで共棲培養することにより仏典にある醍醐を抽出することに成功しました。

表
西域
  中国西方を意味して使われる西域という言葉は、一般には東は敦煌、西はパミール高原、北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれた地域を指し、つまり中央アジ ア・西アジア全域や、時にはインドまでを含めて使われます。狭義の解釈としましては、漢時代に西域36国と総称されるオアシス年国家が分立したタリム盆地 のあたりを指します
シルクロード(絹の道)  
十九世紀 ローマ帝国と漢を結ぶ公益路が「絹の道」と命名されました。中国からタリム盆地周辺のオアシス都市を経由し、パミール高原を経由して西アジアを結 ぶ道のことです。しかし絹の道はそれよりはるか昔から、文化や宗教など、そして人間もまたこの絹の道を通って運ばれ、土着の文化と影響しあって移動して いったのでした。やがて海上輸送の発達にともない西域を経由した交易ルート、絹の道は次第に忘れられていきました。

敦煌莫高窟の遺跡
タブ3-2 乳酸菌生産物質の歴史
◆特殊な共棲培養方法
16種類の菌による共棲培養というものは実は極めて特殊な培養方法。現在ですら専門家の間では菌の培養は単独で行うべきものとされており、多種の菌種を同 時に培養するなどという発想は現代の科学者には理解し難い方法です。それは、培養そのものが菌の活性度の強化などに充重点が置かれているためで、菌の培養 中に代謝される産生物にまでは目が届いていないからなのです。

◆日本での乳酸菌研究
日本で最初に乳酸菌に着目したのは、京都に住む正垣角太郎氏でした。

◆大正3年、日本で初めてのヨーグルトを製造
1914年(大正3)京都で乳酸菌飲料の製造工場を造り、乳酸菌の世界へ大きく乗り出しました。当時は乳酸菌などの研究が 素直に受け入れられる時代ではありませんでしたが、氏のねばり強い研究と努力が続けられ、製品の宣伝販売活動も精力的に展開されていきました。

◆子息の正垣一義氏
息子の一義氏もまた、医学を勉学するかたわら角太郎氏を手伝うようになり、乳酸菌をもとに医薬品や農業用肥料なども開発するようになりました。第一次世界 大戦の勃発や大正デモクラシーの中での経済的な危機も乗り越え、正垣親子は通信販売なども活用しながら販売を拡大し、販売数を次第に増やしていきました。

◆研究者テイシェによって発見
さて、メチニコフが腸内での乳酸菌の働きを発見した頃、同じくフランスのパスツール研究所では1899年に、テイシェという研究者により乳幼児の腸内から ビフィズス菌が発見され、そして翌年にはアシドフィルス菌(乳酸菌)も発見されていました。ビフィズス菌とアシドフィルス菌は当時、同じ菌種と考えられて いた為、正垣親子もこのアシドフィルス菌使用の共棲培養による乳酸菌飲料の生産開始。芳香と美味がうけ爆発的に売れ始めました。
昭和に入ると、ブルガリア菌などの乳酸菌が分類されて一般でも手に入るようになり、4種類の共棲培養により乳酸菌飲料が作られるようになりました。 1930年(昭和4)の世界大恐慌の影響も受けず業務は拡張されていき、正垣親子は東京でも営業活動を開始し、販売実績も好調でした。ところがその頃、一 義氏は最愛の妻を病気でなくしてしまいました。失意の中、心の拠り所として仏教の道を模索、一義氏は「日本一の仏教者は大谷光瑞猊下である」との明言を受 けた後、大谷光瑞師の主宰する「光寿会」に入門、光瑞師の教えである仏教真理の科学的追究という道に入っていったのでした。

◆天から与えられた使命
奇しくも、一義氏の専門が乳酸菌の研究であったことは、まさに運命の巡り合わせとも言うべき事でした。大谷光瑞師の説く「仏教は科学である」という理念、 そして病気で妻を失った一義氏にとって、人間の命の儚(はかな)さを嘆くよりも、仏という究極の状態を目指すための寿命論、腸内細菌による生産物質の研究 を行う事は、まさに天から与えられた使命でもあったのでした。

◆共棲培養と生産物質
 1941年(昭和15)頃には、光瑞師は既に中国の大連に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設立、同時に数種類の乳酸菌による共棲培養方法の開発に成功していました。
1942年(昭和16)日本は第二次世界大戦に参戦、陸軍軍医学校に於いても乳酸菌生産物質の効力が立証され、戦地の兵士の保険用として研究され、実際に戦地で効力の実験も行われていました。
一方、一義氏は1946年(昭和20)乳酸菌飲料の生産準備のため中国の大連に渡航した際、当時上海在住であった念願の光瑞師に拝眉し、それまでの乳酸飲 料から、その生産物質の研究に方向転換することになったのでした。ここに師と仰いでいた光瑞師と共に、いよいよ乳酸菌生産物質の共同研究が始まったのでし た。

◆16種類の菌種を使用した生産物質
終戦を迎える頃には共棲培養の研究は既に菌16種類を使用した生産物質を取り出すまで及んでいました。
光瑞氏は一義氏に、日本でも大谷光瑞農芸化学研究所を設立することを命じた後、大連からの引き揚げ船に乗船、佐世保に入港しました。1カ月後には一義氏も 無事、引き上げて来ることができましたが、光瑞氏は翌昭和23年の10月5日に病気のため亡くなってしまいました。

◆東京に新会社設立
帰国後、一義氏は大谷光瑞農芸化学研究所を引き継ぎ、焼け野原となった東京で新たに会社を設立し、乳酸菌生産物質による食品、香料、自然防腐剤などの開発 に着手、新製品を次々と開発、現在の共棲培養法の基になる技術を確立したのでした。
その後、乳酸菌生産物質の研究は敗戦の混乱による紆余曲折を経ながらも、研究者の手によって脈々として続けられてきました。

◆正垣一義氏84年の生涯を閉じる
1985年(昭和60)11月7日、正垣一義氏は、腸内細菌に捧げたとも言うべき、その84年の生涯を閉じることになりました。

◆歴史の上に培(つちか)われた培養技術
近年になって乳酸菌生産物質はやっと各方面で脚光を浴びるようになり、一般にも広く知られ評価されるようになりましたが、その本質にせまるものは、戦前の 大谷光瑞農芸化学研究所から現在に至る、正垣氏ら研究者による永年の地道な研究と改良の歴史の上に培(つちか)われた培養技術なのです。

◆歴史の中で
正垣角太郎氏のヨーグルトは様々な製品の形をとりながら、長い歴史の中で完熟の度を強めてゆきました。
正垣一義親子の功績は、単なる乳酸菌の研究にとどまらず、仏教真理の追求を念頭に置いた、たゆまぬ努力が実ったものであります。単に学術的研究、或いは営 利至上主義で事業に従事していたならば、現在、乳酸菌生産物質が世に出ることは決してなかったでしょう・・・。

◆現在もなお
正垣親子の意思を受け、研究を引き継いだ正垣イズム継承の直系研究所では、さらなる研究・開発が「人々の健康を守る目的」で行われているのです。

ヴェルテクスの製造に使用される16種類35株の菌

大正時代、乳酸菌飲料の製造をしていた正垣角太郎氏の施設(京都府)

大正時代、乳酸菌飲料の製造をしていた正垣角太郎氏の施設(京都府)
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